台風のために延期になってしまった「ナポリピッツァサミット2013」は、いよいよ明日木曜日から日曜日まで、汐留のイタリア街にて開催されます。どうぞご来場ください。
汐留の野外広場に薪窯を持ちこんで、日本各地から集まったピッツァヨーロがピッツァを焼き上げます。たくさん食べ、たくさん呑みましょう。 ![]() |
【企業×大学 パネルトーク&ダイアローグ】「これからの社会をつくる人材」を育成するために、いま何をすべきか 」事前企画の第9回です。何のことだかわからない方は、11月4日のブログを。いよいよ明日の開催です。どんな皆様とお会いできるか、とても愉しみにしています。
思い立って、開催前に連続的にブログを書くということをやってきましたが、自分なりに考えの整理になりました。読まれる方がどうだったのかはわかりませんが…。まだまだ、書きたいことは残ってはいますが、今日は開催前日、つまりこういってブログを書くのも最後になるので、シンプルな話で終わらせようかと思います。 すべての社会人は、もう二度と新卒就職活動をすることはありません。明日、集まる皆さんもすべてそうだと思います。ですから、私たちが新卒就職活動を考えるのは、次世代のことを考えることになります。もちろん、第一義的には自分の企業のために考えている、自分の大学のために考えているということになるのだとは思いますが、少なくとも間接的には次世代のことを考えることになっているはずです。 私たち人間も生き物です。すべての生物は子孫を残し種を絶やさないことが遺伝子に組み込まれています。つまり次世代をはぐくみ守り育てることは、すべての生物の遺伝子に組み込まれている活動になります。でも、進化とともに人間の遺伝子は一部分が劣化してしまっているのかもしれません。この機能はどうも弱まりつつあるようです。 今年当社に来たインターンシップ生の1人が最後の発表のときに言った言葉です。「インターンシップを通じて、結構仕事をしている人はつらいことばかりではないんだ、愉しいことが仕事の中にはたくさんあるんだということを肌で理解できた。自分は自分の子どもに仕事って愉しいんだぞといえる大人になりたい」。こんな趣旨でした。よくよく聞いてみると、彼の家庭では、働いている両親ともに、仕事の愚痴ばかりをこぼしており、仕事のネガティブな印象ばかりを刷り込まれてきたというのです。彼が「インターンシップ先の人達はそうでもないみたいだよ」というと、親からは「学生のお前にはいい話ばかりしているからで、本当はいいことなんかないはずだ」といわれたというので、これは筋金入りですね。 確かに仕事は辛いことの連続であり、いいことはほんの少しだったりするかもしれません。でも、毎日毎日私たちが仕事に向かえるのは、何か魅力を感じることができるからなのだと思います。今、日本で働いている人のすべてがハッピーに働いているとはいいません。でも、少なくとも私たちが次の世代に仕事についてポジティブな面を魅せて行かなくてどうするのでしょうか。 就職活動もそうです。その悲惨さ大変さばかりを強調すればするほど、誰もが委縮します。合目的的な行動として、マニュアル的な対策での武装を選択します。これは社会側からのプロパガンダにも多大なる責任があるといえます。採用担当者のほとんどはもの凄く前向きで、熱いハートを持つ人です。そして、ハードに働きながらも仕事を愉しんでいます。採用シーズンになると、夜遅く家に帰ってパタンとベットに身体を横たえるだけの生活をしていても、そんな自分の一日を褒めてあげられるような充実感を得ています。 仕事について、社会について、就職活動について、どうしてこんなにネガティブ・キャンペーンをこの国はしているのだろうと思います。確かに世の中には、おかしいことも間違っていることもたくさんあるので、何でも楽観的になるのは薦められません。でも、社会人の1人として、仕事のこと社会のこと就職活動のこと、それらを自分の言葉で次世代に愛着をもって語れるようにはなりたいものです。少なくとも「働くことってまんざらでもないよ」程度のことはいいたいですね。 少し感傷的な内容になりましたねぇ。 ![]() ※本連続ブログに用いた写真は、すべてカラーハンティング展からのものでした。 |
【企業×大学 パネルトーク&ダイアローグ】「これからの社会をつくる人材」を育成するために、いま何をすべきか 」事前企画の第8回です。何のことだかわからない方は、11月4日のブログを。いよいよ開催は明後日です。どうやらかなり即興性の高い会になりそうな気配です(?)。
今日は企業の「求める人材像」についてちょっと考えます。これって就活生にとって、大学のキャリアセンターの方にとって、どのように見えているのでしょうか。今回のパネリストの1社は、近年かなり大きく求める人材像の打ち出しを変えたそうです。その結果、受けに来てくれる学生の層ががらっと変わったと話されています。これは実に大きな示唆です。 「求める人材像」の位置づけは企業によっていろいろと違うように感じられます。かなり尖がったところを魅せる企業と、ベーシックなところを魅せる企業にまずは二分されるでしょう。前者の場合は、たぶん内定者全員がそういう人であると困ったりするかもしれません。尖がった人材像を提示している企業は、既存の社員がそれを満たしているかというと、けしてそうではないでしょう。ですから、新入社員にそれを求めること自体がちょっと酷だといえるかもしれません。ただ、その企業がこう変わっていきたいというメッセージなのです。 話は少し変わりますが、昔、大学関係者に『企業が提示している「求める人材像」と「採用基準」って違うんですか』という素朴な質問を受けたことがあります。皆さんの企業ではいかがでしょうか。そもそも「採用基準」なるもものをどの程度、明確に説明可能でしょうか。多くの企業では在籍する高業績者のコンピテンシー分析をして、それを採用基準の検討・設定に活かしています。しかし、これは過去の分析によるものであり、未来志向の話ではありません。従来とおりのビジネスモデル、ビジネス環境でビジネスが続けられるのであれば合理的な話ではありますが、現実的にはちょっと悩ましいところです。 あとは「当社にあうかどうか」というしごく曖昧な「採用基準」も良くあります。別の言葉でいえば「一緒に働きたいかどうか」。極めて主観的で曖昧な基準ですが、実態として意識、無意識に関わらず、この基準で判断をしている面接官は日本中に数多くいそうです。面接重視の採用をしている企業は実はここを大切にしているのかもしれません。面接官毎に判断が異なるのは問題だ!という見方もありますが、逆にバラエティに富む人材を採るには面接官の主観を大切にするのは合理的だという見方もあります。 新卒採用は絶対評価のようにみえて相対評価です。ですから、特に採用活動終盤では、採用目標数と辞退の可能性を両にらみしながら内定を出すということが求められます。となると、同じ企業であっても時期によって、基準が微妙にずれることも出てくるわけです。分かりやすい話としては、採用活動を締め切ったあとにもの凄く優秀な学生がきても採用できないという企業はあるということです。 「求める人材像」の話と少しずれますが、企業が面接で好きな質問に「挫折経験」というのがあります。ただ、私はあまり好きではありません。挫折をしたこと、それを乗り越えたこと、ここでは経験学習のサイクルをどう回したかが確認しやすいという面が確かにあります。ただ、タフな人ほど簡単に難事にぶつかっても挫折とはとらえないのに対して、ほんの些細なことでも挫折体験として誇らしげに語る人もいます。基本的に同世代同士での人間関係による挫折体験(サークル内での人間関係のトラブルとか)から得たことは、社会に出て役に立つ保証はありません。少々のことを挫折となんて感じずに乗り越えてきた人は、語るべき挫折体験がなかったりするわけです。ですから、挫折体験がないことが就職活動に入るとコンプレックスに感じるなんてことがあります。でも、採用基準にも求める人材像にも、当たり前ですが「要 挫折体験」とは書かれていません。 私は「挫折体験」よりも「アウエー体験」を聞くのが面白いと思っています。多様性と対峙したことがあるか、どう対峙したのかという確認ができます。また、挫折という主観的な基準による体験ではありませんから、弱い人ほど能弁になれるということは起こりません。 ![]() |
【企業×大学 パネルトーク&ダイアローグ】「これからの社会をつくる人材」を育成するために、いま何をすべきか 」事前企画の第7回です。何のことだかわからない方は、11月4日のブログを。開催まであと3日です。
今日はこの夏に参加させていただいた東京大学・京都大学・電通育英会共催の大学生研究フォーラム2013「学生のうちに経験させたいことー大学生の今、変わる企業」での安西祐一郎先生の話からです。以前に書いたブログの内容的には大きくは変わりません。 安西先生の提起したキーワードは、主体性と多様性でした。主体性というのは、ほとんどの企業か提示している「求める人材像」に何らかのかたちで入っていそうですね。 安西先生のいう主体性は「自分の目標を自分で見いだし、実践する力」であり、独りよがりとか独善的とはまったく異なることだとの但し書きを加えられていました。また、東京大学の吉見先生は、主体性の定義として「ビジョン」と「こだわり」であり、「ビジョン」とは将来に対する見通しであり、「こだわり」とは執念であるとされていました。これはかなり気合いの入った定義です。 主体性をはぐくむ学習方法は果たしてあるのか、これが大きなテーマです。安西先生の整理は「チームワーク」と「答えがない学習」です。これが大学生活に求められており、不足していることだといえます。 ここでいう「チームワーク」とは、単なるグループ学習とは異なります。サークルの仲間内でのチームワークとも違います。知っている仲間同士で、先生から与えられた課題に取り組み、先生が既に知っている答えを目指すといったタイプの学習では、主体性は絶対に芽生えません。ある種、居心地の悪い多様性に溢れる仲間同士で、答えのない問題にチャレンジする必要があるわけです。ここで主体性の問題は多様性と接してきます。 たぶん、今の大学キャンパスにおける大きな問題の1つは多様性の欠如でしょう。諸外国に比較して留学生比率が低く、多様性の幅が狭いというデータも当日は提供されていましたが、確かにそうなのだと思います。ただ、それよりも日常的な大きな問題は、いろいろな学生などと話しているとわかりますが、大学というのは多様性を極端に回避しても生きていける世界だということです。要は心を閉ざして仲のいい仲間だけでまったり愉しく生きることが容易に許容される世界なのです。留学生がいくら増えてもここが変わらないと、大半の普通の学生にとっては何も変わりません。 今回のテーマとなった「主体性」と「多様性」というのは、並列して提示されるものではなく、主体性をよりはぐくみやすい環境が「多様性の海」なのだということでしょう。これは企業においても同じです。新卒一括採用はこの文脈ではネガティブです。営業というリアルな多様性に直面せざるを得ない仕事を新卒新入社員に多くの企業が最初に経験させているというのは、実に筋が通っていることだといえます。 「教わる」のではなく「学ぶ」文化への転換も主体性を育みます。日本の教育の大半は「教わる」に終始しています。MOOC(Massive Open Online Course)のようなものが広く一般的になると、学びたい人は誰でもいつでもどこでも自分のペースで低コストで学ぶことがきるようになります。これまで、学ぶには環境とお金が必要でした。ですから、先進国に住む裕福な人が圧倒的に有利であり、同じ国内でも富裕層が圧倒的に有利だったという現実があります。しかし、本当に世界のどこでも同じ機会で学ぶことができようになると、学びに対するポイントは、環境や裕福さではなく、学びたいという「主体性」になります。これは革命的な話です。 「学び」に対する主体性の原動力は何でしょうか。安西先生が提示されていたなるほどというケースがあります。途上国の若者のうちある層はもの凄く主体的な学びをどん欲にしている、それは学ぶことによって今の状況から抜け出し自分の人生を幸せにしたいという思いが強くあるからだというような話でした。一昔前であれば、ボクシングで世界を目指すことにより実現させようとしたことが、学ぶことで世界を目指すことによって実験できる可能性が出てきているわけです。本当に革命的な話です。 これと同様な動機をドライブさせることは、豊かな国という立場に慣れてしまった日本ではもう難しいでしょう。ただ、健全なる危機感はきちんと持つ必要があります。健全なる危機感は主体性の原動力になり得ます。危機感を持つもっとも平易な方法は、自分が何も知らない存在であるということを知るということです。自分よりも凄い奴がたくさんいるということを知るということです。でも、そのためにも何よりも学ぶことが必要になります。これだと鶏が先か卵が先かになってしまいますね。 ただ、大学がなすべきアプローチのヒントは明らかにここにあると思います。徹底的に準備した就職活動支援の素晴らしさを、大学が競っているような風情があります。これは大学としては生き残りのために必要な活動であることは間違いないのですが、ややもすれば、学生から主体性をさらに奪いかねません。これは凄いジレンマです。ただ、そもそも主体性のない学生に対しては、懇切丁寧なアプローチから入るしかないのは議論の余地はないでしょう。 「チームワーク」と「答えがない学習」を日常の授業に当たり前のようにビルトインすることが何よりも大切です。妹尾堅一郎先生は、以下のような「問題解決症候群」の蔓延を指摘されています。 ・問題は与えられるものである ・与えられた問題には必ず1つの正解がある ・その唯一の正解は誰かが知っているし、場合によっては教えてくれる 新入社員研修では、企業の教育担当者はこの症候群から目を覚まさせることに腐心します。大学までの価値観はまさにこれだったのです。日本の学校教育に最適適応すると、問題解決症候群に陥らざるを得なかったのです。しかし、社会に出るということは、この価値観からの転換を意味します。入ってきたばかりの新人は常に答えを探してさまよいます。間違った発言をすることを極度に怖がります。でも、社会は「どう問を立てるか」からはじまる世界なのです。 本当は大学でもこれでは困るはずです。なぜならば、学問というのはこういうものではないはずだからです。高校まではこれでもいいのかもしれません。でも、本来は大学は違っていたはずです。数日前に大学の高校化の話を書きましたが、その最大の弊害がここにあるといえるかもしれません。 大学の就職指導、キャリア支援もこの傾向を助長しているところがありそうです。確かに採用活動にも問題があるのですが。でも「チームワーク」と「答えがない学習」により、問題解決症候群に陥っていない学生を輩出できる大学であれば、就職率も抜群になることは間違いありません。 ![]() |
【企業×大学 パネルトーク&ダイアローグ】「これからの社会をつくる人材」を育成するために、いま何をすべきか 」事前企画の第3回です。何のことだかわからない方は、11月4日のブログを。
以前に仲間と一緒にある大学の就職部(まだキャリアセンターといわれる以前の頃です)から委託を受けて、学生の就職相談員をやっていたことがあります。学生は面接で話すこと、エントリーシートに書くことがないといってやってきます。でも、丹念に大学生活の日常を聞くと、結構いい話があがってくる人も少なくありません。面接で語ること、エントリーシートに書くことは、華々しい活動である必要はないと思っています。小さくてもいいので何かに自分なりに考えて取り組み、その結果何かを得たことであればよいのです。1週間だけいった海外ボランティアの経験を無理にしてもらうよりも、普段の大学生活をどう送っているのかを本当は私たちは聞きたかったりするのです。 経験学習のサイクルで考えてみるのが一番いいと思います。図は北海道大学の松尾先生の整理のパクリですが、具体的経験をする⇒内省する(リフレクション)⇒教訓を引き出す(持論化する)⇒新しい状況に適応する、というサイクルになっています。大学生活の中で、このサイクルをそれなりにまわすことができた経験が何かあれば、それは面接で語れ、エントリーシートに書けるネタに間違いなくなります。 ![]() 「自己分析をやっているんですが、自分がよくわからないんです」という人は、具体的経験と切り離していきなり内省ばかりをしている可能性があります。経験と切り離された内省は、宗教家でもなければ意味はありません。 「エントリーシートの締め切りが近いんですが、エントリーシートに書くネタがないんです」という人は、内省と切り離された単なる具体的経験探しをしている可能性があります。経験学習のサイクルを意識していないでやるだけやった経験は、その見かけの派手さだけでしか勝負はできません。エントリーシートも進まないわけです。 中途採用だけでなく新卒採用でもそうですが、私たちはその候補者の過去ではなく未来を買うのです。ですから過去に単に華々しい活動をしているだけでは、安心できません。もちろん、私たちは占い師ではありませんから、未来はどうなるかわかりません。そこで、仕方がなく過去にやってきたことを面接では聞くのです。そのときに意識するのが、いわゆる「再現性」といわれる奴です。つまり、そんなこといってるけど、本当に会社に入っても活躍してくれるの?というところです。 これはまさに経験学習サイクルの中の「教訓を引き出す(持論化する)」の部分と密接に関係があります。どんなに印象的なイベントをたくさんこなしていても、下図のような日々では成長はありません。 ![]() これ、仕事をしていても結構ありえますが、果てしなき日常の中で日々疲弊していってしまうパターンです。会社にはいって、最初のうちからフットワークよく動いて立ち上がりは何となく良かったんだけどね、でも彼っていつまでたってもその先には成長しないね、などといわれてしまう人もこのパターンかもしれません。 ![]() これは少しはいいですけど、持論化にまでいたっていないと再現性の面では不安がありますし、何よりも成長の幅も小さくなります。結構、悩んじゃうだけで終わってしまうとかもありそうです。 大学生活でどれだけ、きちんと経験学習のサイクルをまわしてきたかはとても大切です。面接やエントリーシートを書く段階になって、それができていない人はあわてることになります。でも、そこで気づいたのではちょっと遅いわけです。日々の授業の中で、それぞれの授業の題材を持ちながら、自然に経験学習のサイクルがまわせるような体験をつめることが理想です。 面接の話題がどうしても、学業ではなくアルバイトや課外活動の話が中心になってしまうという現実があります。その背景には、学生が学業よりもアルバイトや課外活動などでの方が、経験学習のサイクルをまわす経験をできているという現実があるわけです。逆にいえば、授業の中で経験学習のサイクルをまわす経験があまりできていないという現実があるわけです。 もっともっと学生が正課の学びの中で、経験学習のサイクルをまわすような学びの経験ができるようになると、いろいろなことが変わってくるのではないでしょうか。そして、そのような素晴らしい授業をされる先生方も確実に増えていることは間違いありません。 ![]() |
【企業×大学 パネルトーク&ダイアローグ】「これからの社会をつくる人材」を育成するために、いま何をすべきか 」事前企画の第5回です。何のことだかわからない方は、11月4日のブログを。
就職活動はとても曖昧で理不尽なことの連続かと思います。その結果といっていいのかわかりませんが、「就活うつ」なんて言葉まで出てきています。 エントリーシートの採用基準は明示されず、不合格になっても理由も教えてもらえません。どの企業の面接がいつ頃にあるのかも事前にはわからず、急に連絡がきたり、HPにアップされたりしてあわてて対処するしかありません。あんなにいい雰囲気だった面接でも不合格になったりします。自分よりもぜんぜんいい加減な奴が、自分が落ちた会社から内定をとったりします。明らかに親の七光りで早々に内定をとったとしか思えない奴もいます。普段は腹黒いのに人当たりが上手だから面接を通ったに違いないと感じる奴もいたりします。企業がいっている求める人材像も本当だかどうだかわかりません。面接で何をクリアすれば合格するのかはわかりません。学校名であの会社は足切りをしてるんじゃないかと感じたりします。面接で何を判断されているのかもよくわかりません。 そう、確かに就職活動は実に曖昧さと理不尽さに満ち満ちています。 でもそれを嘆いてみても始まりません。曖昧で理不尽な就職活動に立ち向かうことにこそ意味があるのかもしれません。なぜって、社会自体が曖昧さと理不尽さに満ち溢れているからです(このあたり、花田光世先生の影響を強く受けていますねえ……)。 営業に配属になったとします。とある小企業に自社商品を売りに行きました。総務部長が出て来てくれました。商談はいい雰囲気で流れます。でも、何をクリアすれば総務部長は購入を決断してくれるかなんて、当たり前ですが明示されません。それどころか、この人当たりの良さそうな総務部長が果たして決裁権を持っているのかすらわかりません。何度も足を運んでも、総務部長が決裁権を持っていなければ何も前には進みません。また、最終的に商談が決まる直前の段階で、破談になることもあります。先方がメインバンクから急に紹介されたライバル会社に負けることだってあります。社長が不機嫌で契約書に印を押してくれないことだってあります。せっかく契約にこぎつけたはいいけど、その企業が倒産することだってあります。そんなことが起こると売掛金の回収作業に奔走するために、他の営業活動にも大きな影響が出てしまいます。 そもそも、社会は曖昧さと理不尽さに満ち満ちているようです。 でも、だから決まったレールを歩くだけではない面白みがあるのだともいえます。 学校モードから社会モードに移るということは、曖昧さと理不尽さの海の中で、自分が自分の頭で考え抜いて泳いでいくことを意味します。それまでは管理されたプールでしか泳いでいなかったとすると、これは大変なことです。具体的な指示があり、明確な〆切や合格に必要な点数が伝えられていた学校モードとは、異なる世界で勝負をするわけです。シラバスも時間割りもテスト範囲の公開も卒業必要単位数も明示されない世界で頑張るわけです。 今の日本の就職活動の状況がいいとはまったく考えていません。でも、大学から社会への移行のゲートである就職活動というのが、曖昧さと理不尽さに満ち溢れていることには、ある程度は意味があるのではないかという考え方も成り立ちます。就職活動は社会のモードでできているのです。 問題は、シラバスや時間割りやテスト範囲の公開や卒業必要単位数の明示に類するものが、これからはもう与えられなくなるのだということを、学生がリアルに学ぶ前に就職活動に放り出されていることにあるのかもしれません。自己分析も業界分析も大切です。でも、自己分析をするよりも、業界分析をするよりも、もっと以前にやるべきことがあるような気がします。 そんなことを脅かしのトーンではなく、未来感を持って明るく愉しく学生に伝えることが社会人の役割の1つではないかと思います。 ![]() |
【企業×大学 パネルトーク&ダイアローグ】「これからの社会をつくる人材」を育成するために、いま何をすべきか 」事前企画の第3回です。何のことだかわからない方は、11月4日のブログを。
今日は、就職活動を語るときの2つの罠についてです。「ひとごと・批判の罠」と、「自分の頃はの罠」です。 どうも就職活動についての論議は、「ひとごと」になりやすい傾向があります。当日の議論がそうならないように、ちょっと整理してみます。 就職活動の長期化批判、就職活動の早期化批判、学生の大手志向批判、親の過剰な関与批判、企業の横並び思想批判、大学の授業内容批判、対大学のキャリア教育批判……とにかく「批判」ばかりが不思議なほど渦巻いているのがこの世界なのです。 自らは傷つかず汗もかかない立場から、批判を繰り広げているだけでは、何かを変えてやろうという「うねり」はどうしても生まれません。また、「時期論」だけで何かが解決すると勘違いしている傍観者すら多数います。 でも、すでに局所的な「うねり」はさまざまなところから出てきています。おそらく当日お会いできる皆様も多くはそんな方々ではないでしょうか。いずれにしても、「自分ごと」としてこの問題をとらえ、自分は自分のフィールドで何ができるのか、に思いをめぐらせることなくして、問題の解決はありえません。 そしてもう1つ、就職活動についての論議における致命的な問題点がありすま。それは誰もがどうしても自分たちの時代をベースに語ってしまう傾向が強くあることです。どんなに意識してもこれは容易に消すことはできません。 私は50歳になりましたが、私たちの頃と今の就職活動ではまったく様相は異なっています。今の40歳でも、今の30歳でもそうです。厳密にいえば、1年1年、その姿は変化しています。ですから、今の時代のリアルを理解せずに、自分たちの時代をベースにしてこの問題を語ることにはまったく意味がありません。しかし、企業人にはこれはなかなか大変なことです。どんなに意識しても、実体験したことがあるのは自分たちの時代だけなのですから。 民間企業から大学のキャリアセンターや大学教授に転身した方にもまったく同じ落とし穴があります。自分が民間企業で働いていた○○年前をついつい社会としてとらえてしまうわけです。こちらもどんなに意識しても、リアルな実体験はその時代しかしていないのです。企業も年々変化していますし、ここ数年の動きはさらに激しさを増しています。 今を完全に知ることは無理でも、自分の時代の記憶に固執しないこと、今を少しでも知ろうとする努力をすること、そして自分は分かっているとは思わないこと、はできます。これがこの罠から少しでも抜けられる唯一の方法でしょうか。 もう1度「ひとごと」論に戻ります。実は就職活動を社会人が語るときに忘れてはいけない現実があります。それは、すべての社会人は二度と新卒就職活動をすることはないという現実です。自分が今後の将来に絶対やらないことについて、本当に自分ごととして取り組むことができるのか、これは難しい問題です。 新卒採用活動というのは、とてもとっつきやすいテーマのように感じられますが、実はこのように極めて本質的には難しい要素をはらんでいるテーマなのです。 ![]() |
【企業×大学 パネルトーク&ダイアローグ】「これからの社会をつくる人材」を育成するために、いま何をすべきか 」事前企画の第3回です。何のことだかわからない方は、11月4日(月)のブログを。
昨日、東京大学の本田先生のお話の引用から、大学と仕事の接続の現状の話が出たところで、今年の夏の電通育英会主催、大学生研究フォーラム2013「学生のうちに経験させたいこと―大学生の今、変わる企業」でお話しした「変わった大学・企業の位置づけ」という話を改めて書き残したいと思います。実はこの話、昨年11月の『法政大学キャリアデザイン学部×マイナビ シュウカツの「実証」』というイベントのパネルで初めて話したものですが、以前から強く思っていたものです。 私が大学を出たのはもう30年近く前になります。大学に入ったのはさらにその4年前です。高校から大学に入った時、何となく社会の一員になったような気がしました。細かい指図はされず、とりたい授業を採り、授業に出るも出ないも自己責任、自分の時間は自分がデザインする、同じクラスには何歳も上の浪人経験者がいたり、自分は自宅生だったけど、多くの1人暮らしの先輩・友人がいる……。高校までとはまったく違うモードの社会の入り口に辿りついたような実感がありました。その頃の高校・大学・企業の位置づけは下図のようなものだったんじゃないかと思います。縦軸は何といえばいいんでしょうか。大変さ、求められる成長、成熟レベル、そんな感じのものです。 ![]() そして時は流れ、時代は変わりました。大学進学率も5割に至るようになりました。少子化の影響で大学は生き残りのために、学生確保に奔走しています。そんな中でいろいろな意味で、大学の高校化が進んでいるように思います。丁寧なキャリア教育、就活支援もこの範疇で語れらてしまうところもあるかもしれません。さらに、そんな動きと同時に起こっているのが、日本経済の疲弊、日本企業の衰退の問題です。企業はグローバルな競争の中で、いろいろな意味でゆとりを失いました。 下図が今の大学と企業の位置づけです。大学のグラフが低くなり、高校に近づいています。それに反して、企業のグラフは高くなり、それまでは高校⇒大学、大学⇒企業の移行の高さが似たようなものだったのが、大学⇒企業の移行の高さが際立っています。社会に出るということが、以前よりも大変になっているのです。 そして、結果的に大学は社会の入り口ではなくなりました。明らかに今は、大学は社会への出口です。二昔前の大学は社会への入り口に感じられましたが、今の大半の大学は高校の延長上にあると感じられてしまうのです。 ![]() このグラフの高さの開きの問題は、大学から社会への移行において様々な問題が起きていることを示しています。ただ、ここでは丁寧にその内容について捕らえる必要があります。この高さの拡大には、二つの要素があるのです。それが次の図です。 図の問題②は大学が高校化してきていることによる問題です。大学の高校化の最大の問題は、大学で主体性、多様性といったものに対峙し、経験することが十分にできていないことです。整備されたシラバスや丁寧な学生指導、AO・推薦重視による浪人の激減、出席をとる授業、増えない海外留学生、こういったものが主体性や多様性との対峙を社会に出るまで回避してもまっとうな大学生でいれてしまうような仕組みをつくっています。 これに対して問題①は、日本企業のおかれている競争環境が変わったことによります。新卒に即戦力を求めるということが実際にあるかというと私は否定的ですが、企業は社員に対して以前よりもより高いものを求めるようになっていることは間違いありません。その意味では、企業が学生に求めるものも高くなっているのです。そして、あくまでも一部ですが、それを軽々とクリアできるレベルの凄い学生が誕生してきているのもまた事実です。 ![]() 大学と企業の連結を語るときに、この問題①と問題②をきちんと区別せずに語られていることがあります。それでは、絶対にまっとうな議論ができません。就職問題、採用問題をとりあげるとき、こういったことの1つ1つを丁寧に整理した上で語ることが絶対に必要です。 ![]() |
【企業×大学 パネルトーク&ダイアローグ】「これからの社会をつくる人材」を育成するために、いま何をすべきか 」事前企画の第2回です。意味の分からない方は、昨日のブログを。
10月26日・27日に開催されたキャリアデザイン学会、学会企画ミニシンポジウム③は『「就活うつ」と「新卒うつ」を考える』でした。東京大学の本田由紀先生と、神田東クリニックの吉村靖司先生によるパネルです。 最初にまずは本田先生からの「就活うつ」の話。いろいろと語りながら、後半ではこういった問題を招く社会的背景についての整理がありました。 この問題の背景には、3つの箇所に深刻な現状があり、これらをきちんと整理して考えないといけないという話です。私が常々感じていることとピッタリとあったお話しでした。この3つとは、大学教育の現状、日本の労働の現状、大学と仕事の接続の現状です。本田先生の資料から抜粋させていただきます。 〓大学教育の現状〓 ○大学数の増加、大学進学率の上昇に伴う大学・大学生の多様化と格差化。 ○経営上の理由から「入口管理」(厳密な入学者選抜)と「出口管理」(厳密な成績評価)が困難。 ○分野の融合・学際化(曖昧化)と細分化(蛸壺化)の共存。 ○合格可能性を重視した進学先決定がもたらす学生の入学後の不適応。 ○職業関係性に偏るキャリア教育や表層的な就職対策、仕事や社会生活への「意義」の希薄さ。 ○学費の高額化と奨学金制度の未整備 〓日本の労働の現状〓 ○正社員比率の減少、非正社員比率の増加 ○正社員は「ジョブなきメンバーシップ」。強固な参入障壁、職務範囲の不明確さ、それに伴う過重労働・長時間労働。 ○非正社員は「メンバーシップなきジョブ(タスク)」。有期雇用と低賃金、教育訓練の手薄さ。 ○正社員/非正社員いずれにも進行する現象として、世界的コスト競争と産業構造の変化(高付加価値化・サービス化)。これにより利潤獲得が困難になる中で、法律や人権を蹂躙する働かせ方が増大(ブラック企業問題)。 〓大学と仕事の接続の現状〓 ○長期化・煩雑化・不透明化した就活が学生にとって多大な時間的・金銭的・精神的負担に。 ○インターネットの就職サイトの支配によるボトルネック化。 ○キャリア教育や保護者の就職観がもたらすプレッシャー。 ○新卒採用と経験者中途採用のはざまで未経験既卒者の就業機会が大幅に限定………拡大した大学教育と拡大しない仕事との量的ギャップ、質的な選抜・マッチングの合理的指標および新卒採用ルート以外の就職ルートの整備に著しい立ち遅れ。 ○その諸矛盾が就活性に集中。 互いがそれぞれの現状をきちんと理解をした上で、全体を意識して考えて行くことがやはり何よりも大切なことは間違いありません。移行の問題とは、A⇒Bで書き表せますから、その構成要素であるA、B、そして⇒を個々に知ることは必須です。それをせずに漠然と就職問題、採用問題を語ることの意義はあまり高くないと感じています。企業の人はBは理解していますが、Aは昔のイメージでしかみていません。そして、⇒は意外と理解できていません。そんな現状を少し変えるだけで、いろいろな人の行動が少し変わってくるのではないかと思います。 ![]() |
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