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「越境学習」について考えたりみたりしちゃったりして…
「丸の内界隈の怪しい人たち」の間で、改めて「越境学習」がテーマになっています。私は何事も体系的に学んだことがないので、「越境学習」の真の定義をリアルに理解しているとはいえません。で、中原・長岡イズムから心に浸みこんだ認識で語ることになります。そもそも今回の再燃の発端も、岸さんが長岡先生のクラスで語ったことによるのですが。

人は何のために「越境学習」をするのか。私が「越境」し始めたきっかけは。…などという表現にそもそも何となく違和感があります。

ただ、林さんとのFBのやりとりで「越境しはじめたきっかけは」と聞かれたので、ちょっと整理してみよかなと思います。

「学習」とは何かを経験することによって人がプラスの方向に変わることなんだと個人的には思っています。経験・プラス・変わるがキーワードです。

そうそう、突然思い出しましたが、「発酵」と「腐敗」は科学的には同じ作用だという話を聞いたことがあります。人にとってプラスのものを「発酵」、プラスでないものを「腐敗」というそうです。パンが発酵したり、発酵して納豆ができたりするのは、明らかに人類にとってプラスです。ですから、「越境学習」というのも、境を越えて何かを経験して自分にプラスの変化があるということなんでしょう。

私たちの日常にはたくさんの境があります。

例えば、家庭と職場。これは大きな境です。でも、会社で働いて家に帰ってきたときに「今日は職場で目いっぱい越境学習してきたぞ」とはいわないでしょう。なんていうか、家庭と職場というのは、異なる世界が流れていて、それぞれでたくさんの経験をしてプラスの方向に変化しているのだろうし、実はとっても相互作用しているんだけど、あまりにそれらが当たり前過ぎているのでしょう。

話がずれました。とにかく、せっかく外にでるんだから「腐敗」じゃなくて「発酵」したいですね。

「越境学習者」は基本的に自分の時間と自分の金を使って学習しています。そして明らかに「腐敗」ではなく、「発酵」の価値を得ています。

岸さんのブログからですが「越境学習を個人に強いている(自腹、自分の時間…)日本はひどい国だ。越境学習者が増えることでイノベーションが生まれる、だからこれは社会政策に関わる問題だ」という議論もあったとのことですが、気持ちはわかるものの、この発想は私にはちょっと理解できません。「越境学習者」が「強いられている」という仮定がまず間違っていますし、そもそも社会政策で「越境」するなんて気持ちの悪いことを人は楽しめるものでしょうか。

厚生労働省がキャリアコンサルタント5万人計画を打ち立てたので、キャリアコンサルタントの資格を取りましたなどというキャリアコンサルタントがいたとしたら、そいつはろくなものではないでしょう(言い過ぎ?)し、下手をすると有害なキャリアコンサルタントである可能性大です。もっと内なる動機から多くの人が休みの日に大枚はたいてGCDFやCDAのクラスに通ったはずです。しかも、自分のお金で。そして、キャリアカウンセラーの資格なんかとってもお金になんかならないよ、ということを十分に理解しながら。

大人にとっては合目的的な学習というのは、たぶんつまらないのです。子供・生徒・学生にとっては、ある程度、学習は合目的的だったんだと思います。いい高校に入るため、行きたい大学にいくため、赤点取って補習に呼ばれないため、そんな目的が常にはありました。社会人になると若手初期教育が終わると、大人の学習はおおむね個人にゆだねられます。そこで人は初めて合目的的でない学びと対峙します。合目的的でないということは、学びという行為そのものに魅力がある必要がありますが、貴重な時間と資金を投入するのであれば「やって良かった」「いって良かった」感がやはり必要です。そして、不思議なもので、結果的には大きな目的にそっていたりするものです。

「越境」というのですから、自分のホームじゃないところに行くという前提があるんでしょう。先の家庭と職場の話でいうと、両方とも「ホーム」なので相互に越境感がないんですね。

で、私のことに戻りますが、「越境学習者」といわれることも多いですが、自分自身は「越境学習」をしているという認識がありません。ですから、皆さんの議論がピンとこないんだと思います。もちろん自分の定義の中で小さな「越境感」を感じる瞬間はよくあります。「越境感」を感じる瞬間というのは、違った視野を得られたと思った瞬間でもあり、「学習棄却」の作用が頭と心の中で起こった瞬間でもあります。でもそういうのは、何かをした上での「瞬間」の話であり、何かをする行為自体が「越境学習」であると感じるとか、今日は「越境するぞ」という感覚だとか、ましてや社会政策でそれを促進するべきだということだとかとは、何かしっくりとこないものがあります。

以前に書いたような気がしますが、土曜日や日曜日も「越境学習」に繰り出すのは、土曜日や日曜日も疲れた身体をもろともせずに朝早くから草野球に出かけるお父さんとほとんど違いがないんだと思っています(ユーミンの「まぶしい草野球」を思い出してください)。

大人になった私たちは、もう誰かに強制されて学ぶ立場ではありません。ただ、学びたいというのは、人間の本能の1つなのだと思います。生物としての人間には「進化したい」というDNAがあるはずです。

なので、とても自然に私は学び続けるでしょうし、環境が許す限りは「越境学習」というこの贅沢極まりない趣味を持ち続けるのではないかと思います(すべての国民がささやかに越境できるだけの生活を営めるような基本的な社会政策ならばあってもいいかもしれません。もちろん越境を目的にしてはいません)。

自分が「越境しはじめたきっかけ」をリフレクションしようと思ったのですが、話がそれました。かつ、ものすごく散漫になったのですが、修正を入れずにアップしちゃおうかと思います。それだけまだ「大人が学ぶ」という概念は、混沌として体系化されていない素敵なものなのだということなんでしょうから。

と思ったところで、1つ追加。
「越境学習」のもう一つのキーワードには、仲間というと恥ずかしいですが他者との相互作用というのがあります。1人で有栖川公園の図書館に行って、今まで接したことがない本を1日没頭して読んだとしても、それを誰も「越境学習」とはいわないでしょうから。

もしかすると、これが「越境学習」の醍醐味かもしれませんね。そして、その醍醐味を味わった人は、まだ味わっていない人を「いざない」、さらには自ら「場」を作っていく…。そんな連鎖がいつもあると思います。でも、自ら作った「場」が「越境」であるというのは、既に言葉上の矛盾を感じないでもないですけど…。

《2011年7月9日》 大学のサークルの仲間と赤坂で飲み会。年をとるにつれて会う機会が増えています。だらだらと4時間くらい一軒で飲みましたが、最近は長時間一軒のみが多いように思います。この傾向は、飲み屋に勝ち組と負け組をつくりやすい傾向だとふと感じました。


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【2011/07/09 15:12】 | HRM全般 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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