東京大学の中原淳先生のブログを題材に勝手にインスパイアされたことを書く企画「チャレンジJ&J」の第3回です。なんかお題トークみたいで愉しいですね、こういうのも。ただし、時間のある時の話ですが……。
本日(3月17日)の中原先生のブログのタイトルは『新しいアイデアをどのように生み出したらよいのか?:「自分の土俵にひっぱり力(時間軸)」 × 「異領域首突っ込む力(他人軸)」!?』でした。長いタイトルです。 学生からの「どうやってアイデアを出しているのか」という素朴極まりない問に即興で応えられた話だといいます。たいてい即興で応えた話は真実だったりします。 そして、その答えは 「アイデアは、「時間軸」と「他人軸」の「かけ算」みたいして生まれてくるんじゃないの?」。 言葉の紡ぎ方が格好いいですね。そして、これ、まったくもって実感値的に同感です。まずは、ちょっと引用します。 ********************************************** ここでいう「時間軸」とは、文字通り、「アイデアを生み出すのに、自分がかけている時間であり、機会」です。「他人軸」とは「自分が、異領域の他者と出会い、相互作用すること」です。 僕が、自分の研究生活で(しょーもないものも多々ありますが)アイデアを思いついちゃったときのことを考えると、この二つがうまく結びついたときであるような気がします。 (中略) 皆さんは、アイデアを思いつくというとき、そのことを考えることに、どのくらいの時間をかけているでしょうか? 僕の答えは「シンプル」です。 僕の場合は、目覚めているときは、ほぼ、自分の研究のことを考えています。「Management and Learning」というものから、たぶん本当に片時も、自由になることがありません(研究の奴隷のようなものなので、あまりオススメしません)。 僕が理想とする「研究者」は、何を見ても、自分の研究領域のことに引きつけて、24時間、考えている人です。 テレビを見ていても、友達とだべっていても、何をしていても、常に自分の研究領域のことが浮かんできますし、何を問いかけられても、自分の土俵にひっぱって、物事を考えます。 街を歩いていて、ウィンドウショッピングをしていても、「常に、これ、なんかに使えるんちゃうか?」と考えます。 少なくとも、僕にとっては、アイデアとは「常に考え続けること」から生まれているのではないか、と思っています。 ********************************************** 何回かここでも書きましたが、中原先生のいう「時間軸」に近い概念で、私は「熟成」という言葉を使っています。 例えば何かの企画書を書かねばならなくなった場合、プレゼンは来週の水曜日だったりします。この週末にゆっくり仕上げようとか思って放置しては駄目です。まず、すぐに、即に、ただちに、アウトラインだけでもいいから企画をしたためます。何でもいいから紙に残します。そうしてから、時間がとれる時まで放置しておくのはOKです。これが貴重な「熟成時間」になります。いったん考えられたアウトラインは、常に頭に残ります。そして、電車に乗っているときも、退屈な会議の時も(これは貴重な時間です!)、夜に寝るときも、酒を飲んでいるときも、常に自然とそれを考えることができます。何も着手していないでいるのとは大きく違う時間が過ごせるわけです。 肉も熟成されると旨くなり、麺も熟成されるとコシが出ます。それらと同じようにアイデアも熟成で間違いなく質があがります。 こういった考え方は、狭義のワークライフバランス論の否定が前提にあります。仕事と生活を分けては絶対に駄目です。徹底的なルーティン、流れ作業であればいいですが、少しでも創造性が求められる仕事であれば、渾然一体、汽水域で仕事をしなければ、価値はなかなか生み出せません。日本の労働法は、徹底的なルーティン、流れ作業の工場ラインが未だに前提となっていますから、もうほとんど対応できていません。法規上、タイムカードは押すけれども、創造力のタイムカードは押したら負けです。肉体は2つのことを同時にできませんが、脳はマルチで動かせることができるのです。 中原先生はもう1つ「他人軸」をあげられています。これもすみません、引用してしまいます。 ********************************************** もうひとつは「他人軸」です。 それは、自分の知らない異領域の人、自分がお付き合いしたことのない専門性や経験をもっている人々からのお誘いは、原則として「断らない」ということです。 敢えて「異領域に首突っ込むこと」をよし、として、積極的に「出会い」、もし都合があえば、「何かをご一緒すること」を考えます。 でも、ふつう、逆にならないでしょうか。 「ちょっとお畑違いのところのつきあい」は、面倒くさいのでやめておいて、「自分と同じ人たちと群れたがる」。その方が心地よいし、気兼ねないですから。でも、それを敢えて「反転」させます。異領域にがんがんと首をつっこむ。 そうしますと、面白いもので、「あっちの領域」では言い古されたことでも、こっちの領域ではめちゃめちゃ新鮮である、とか、そういう「情報の非対称性」に気づくことがままあります。 あるいは、「あっちの領域」ではかなり名前を知られている方が、「こっちの領域」にくれば全く新しい、なんてことがよくおこります。 ここまでくると、しめたものですね。 あとは、最もこれまで「遠かった二つのもの」「一見、ソリの悪いと思われる人々」同士を、丁寧に結びつけることです。イノベーションの古典的定義も「新結合」でしたよね。 ********************************************** 私は業務上で、外部のディスカション・パートナーをたくさん持つようにしています。何か考えに詰まったら、会いに行ったり、お出でいただいて、フリーなディスカッションをさせていただく。その中で、いろいろなことを気づかせていただき、自分の考えを整理させていただくというやり方です。往々にして、そういった皆様はその分野の専門家でおられるので、不足している専門知識の補てんを同時に行えます。 中原先生の「他人軸」度とは飛躍性に大きな差があるかと思いますが、自分の中に異なる視座を持つということは、ともにあるのではないかと思います。 いい意味で素直ではないことの大切さも意識します。自分で考え、自分で反論してというセルフ・ディスカッションもよくやります。私の一番好きな作家は、アメリカのSF作家であるフィリップ・K・ディックなのですが、ディック作品では「何が真実なのかわからない」ことがよくモチーフになっています。自分が本当に人間なのかすら疑わなければならないところに追い込まれる主人公、なんて設定が普通にあります。 非常に素直な人が増えているように感じます。上司としてはマネジメントは楽なので一部に歓迎されるむきもありますが、新たな何かを生むためには、素直は邪魔をします(もちろん頑固はもっと駄目です)。中原先生と対話をしていると、たまに「なんでそんな当たり前のことに質問してくるんだろう、当たり前過ぎて説明できないじゃないか、もうどうでもいいのに…」というような問を受けます(失礼な表現、お許しを)。素直な人はわかったふりをして聞き流すようなことに、素朴に問を立てるのです。そんな素朴で素直じゃない問に、私は勝手に研究者魂を感じたりしています。素朴は大切なのですが、単なる素直は危険です(ここでの文脈は素直の反対語は「頑固」ではありませんよ)。そして、素直でいい人に陥らないためには、異なる視座を自分の中に持つことが必要です。異なる視座を持つ方とふれあうことが大切かなと思います。 今日はこれから中目黒に行き、ミュンヘンに赴任する高校時代の友人の壮行会です。昨日は土曜日にも関わらず、16時間ほど会社にいましたので、昼酒が飲めるのはとても幸せです。立石とか、野毛とか、赤羽とか行きたいで。 ![]()
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