人を「学び」にいざなう「健全なる危機感」
「人はどうすれば学ぶようになるか」。とても難しい問題です。たまたま、先日、このテーマに近い領域で社内で議論をしました。

比較的これまでの日本企業では、会社が育成マップをつくったり、育成計画をつくったりと、育成というのは会社が投げ掛けるものだという発想がありました。新卒採用の面接でも「御社ではどのような教育制度、研修制度がありますか」などと呑気に聞いてくる学生がちらほら見られます。実に牧歌的です。

さて、すでにここまでにいくつかの単語が出てきました。「学ぶ」「育成」「研修」「教育」。この4つの単語のうち、「学ぶ」だけ主体が異なります。例えば会社と社員でいえば、「育成」「研修」「教育」の主体は「会社」、「学ぶ」だけは主体が「社員」です。
ところで、主体と客体からなる対義語というのが世の中にたくさんあります。「買う」「売る」、「寝る」「起きる」、「あがる」「さがる」………。では、「学ぶ」の反対は……。

「育成する」「研修する」「教育する」、いずれも反対語のようにも感じますが、私の感覚からするとあまり反対語としてフィットしません。希望的観測も入っているのかもしれませんが、「学ぶ」というの主体だけでやれてしまう要素が強い言葉のように思います。ですから、対義語は不要なのです。つまり、誰かから「学ばされる」ものではなく、「自ら」学ぶという要素が言葉自体に内在されているのではないかと思います。

ですから、育成マップをつくったり、育成計画をつくっても、「学ぶ」気持ちを呼び起こすのは難しいものです。自己からの欲求が必要です。もちろん、整った育成マップがあったり、育成計画があったりした方が欲求がおきやすいという人は少なくありません。でもそれって「学ぶ」のではなく、「勉強する」のに近いように感じます。

で、冒頭の問に戻ります。「人はどうすれば学ぶようになるか」。

私は一番の答えは「健全な危機感」の存在だと思っています。

人類が火を起こすことを学んだのも、石を削って武器をつくることを学んだのも、集団で動物を追い込んで狩をする方法を学んだのも、農耕を学んだのも、いずれも生きていくための「健全な危機感」が存在したからでしょう。もちろん「危機感」が健全な状況を超えることもあります。例えば、肉食恐竜が襲ってきたときです。もう、学んでいる時間などないですから、逃げる以外にはありません。ですから、「健全な」も学びを呼び起こすためには大切な要素です。極限状況まで詰められると、これは「学ぼう」という気持ちよりも、「逃げよう」という気持ちに傾斜してしまうのは、恐竜時代も現代も同じことです。

自分が経験をしていない仕事に直面し、自分の力でそれを乗り越えようと「自分ごと」で仕事をとらえたときに、おそらく人は仕事の中で多くのことを「学ぶ」のではないでしょうか。というか、仕事から逃げさえしなければ、学ばざるを得なくなるといえます。真剣に仕事に向き合おうとするのであれば、仕事が求められるレベルと、今の自分のレベルとの間の「差」を補うために、「学ぶ」しかないわけです。

よい学びをしている人は、これを刹那的に合目的的にやっているというよりも、無意識に近未来予測をして、「健全なる危機感」を自分のものにして、ごく自然に「学ぶ」という行為につなげているのではないかと思います。刹那的、合目的的な動機による「学び」はどちらかというと「学び」ではなく、「勉強」と呼ばれるタイプのような気がします。「受験勉強」などがその代表例です。

さて、禅問答のような考察を重ねてきましたが、「学ぶ」という言葉はかくも曲者なわけです。「曲者」ワードは人事の世界にはたくさんありますが、よくよく注意をしなければなりません。

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